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  緒方春朔 −わが国種痘の始祖−  
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緒方春朔の偉業を讃える

緒方春朔が願った医療

 最近の医学、医療の進歩は目を見はるものがあり、我々は多くの恩恵を蒙るようになった。一方、脳死者からの臓器移植、生殖医療技術、遺伝子治療など最先端医療の受け入れには戸惑いや恐れを感じるのは私だけだろうか。それは、伝統的な医の倫理では答えられない新たな問題が生じているからで、患者の利益になる大きな可能性がある一方で、実施方法によっては害をもたらす恐れがあるからである。
 このような思いは、緒方春朔が当時の最先端医療である種痘法を案出し、広めようとしていく際にも、多くの医師や一般の人々が持ったであろう。当時、非常に危険なこととされていたことを、春朔をして、そこまでさせたのは何だったのであろうか。
 春朔の願う医療とはどのようなもので、どのように説明し理解を求めて、自分の願う医療を推し進めていったのか歴史的事実を振り返ることによって、多くの教訓を得ることができよう。

1. 予防医療
 当時、大変恐ろしい病気として怖がられていた天然痘は、幼少の子供たちが多く罹患し、大変難治で亡くなる者が多かった。免疫を持たない村にひどい天然痘が進入してくると、その八割の人びとが天然痘に罹り、罹った者の三割が死亡したという。たとえ一命を取り留めたとしても顔面にあばたが残って醜くなってしまう。痘瘡、疱瘡とも呼ばれていたが、対症的な治療法しか無く患者を隔離することが最善の対策であった。
 春朔は、天然痘が流行して多くの子供たちが亡くなっていくのに遭遇し、何とかならないものかと考え思案する日々を悶々と過ごしていた。
醫宗金鑑  医業継承のため長崎に出て、吉雄耕牛のもとで蘭医学の勉学に励んでいた時に、中国から長崎に渡来した李仁山が、種痘という天然痘の予防法を行ったことを伝え聞く。また中国から入ってきた医書『醫宗金鑑』に種痘という天然痘の予防法があることを知り、関心を持って研究を始める。
 天然痘は一度罹ると二度と罹らないことが知られていた。春朔は、中国の医書『醫宗金鑑』に載っていた旱苗種法という種痘の方法で、健康な人にごく軽い天然痘に罹らせておいて、その後に天然の天然痘に罹らないようにする方法を研究し、筑前秋月で天然痘の予防法、すなわち種痘を試み日本で初めて成功した。ジェンナーの牛痘種痘法成功の六年前のことである。
 しかし、天然痘は恐ろしい病気であったので、人々は病気が自分に感染したら危ないと、患者から遠ざかり近づかない。そのような時代に、天然痘の患者のかさぶたを取り、これを健康人の身体に入れ込むという医療行為はなかなか受け入れられものではない。医者は危険と考え恐ろしくて誰も試みようとはしなかった。またそのような医療行為を受けようとする者も、受けさせる者もいなかったであろう。
 この人痘種痘法は、天文学における「天動説」から「地動説」へのコペルニクス的転回以上の発想の転換でなかなか受け入れられるものではなかった。
 春朔が、懸命に説明理解に努めた甲斐あって、ある日、近所の大庄屋天野甚左衛門から自分の子供二人に種痘をして貰いたいという申し出があり、慎重に種痘がされ、無事成功する。寛政二(一七九〇)年二月二十一日のことであった。その後、秋月の医師仲間が自分たちの子供たちに種痘を受けさせ、良い効を得る。それを知った近隣の藩士、農民、町人が種痘を請うようになる。
 さらに、『醫宗金鑑』の方法を改良し、春朔独自の旱苗種法(鼻旱苗法)による種痘を考え出し、種痘の例数を重ねていくと、打てば響くように順調にいくものが多いことがわかった。春朔は、「聖医は未だ病まざるを治す」という言葉があるが、まさにこのことであろうかと感動したという。
 病気になった者を治すことも大事だが、病気に罹らないようにすることがより大事であると、予防医療、予防医学の重要性を力説した春朔は、「予防は治療にまさる」ことを実証した。
 種痘は、今日の我々が受けているインフルエンザ、はしかやジフテリアなどの予防注射の趨りである。よって、予防注射を初めて行い、広めたのは緒方春朔である。
 人痘種痘法は、嘉永二(一八四九)年にジェンナーの牛痘種痘法がわが国に入ってくるまでの約六〇年間、天然痘の予防に貢献した。種痘という概念が医師や国民に理解が得られていたこと、接種技術、蓄苗などの種痘技術の習得経験が得られていたことは、その普及に寄与したものと考えられる。すなわち、ジェンナーの牛痘種痘法導入の露払い的効果があったのである。

2. 説明する医療
 春朔は種痘が天然痘の予防に効果があることがわかったので、これを広めて天然痘の予防に資したいと願った。しかし、この種痘の方法があまりにも変わっているので、でたらめな話だと怪しんで信用しない者が多い。この前代未聞の医療行為を、医者も、一般の人々も理解せず、しようともさせようとする人もなかなかいなかった。
 そこで、種痘がどんなものか、注意して行えば安全で、天然痘の予防に効果があることを理解して貰うために、色んなところで話をし説明をした。
 さらに広く多くの人に理解して貰うために『種痘必順辨』という種痘解説の本を書いた。医者ばかりだけではなく一般の人々の疑問を解き理解して貰うためだ。その頃の医書は漢文で書かれたものが多かったが、春朔は一般の人たちにもわかるようにと、春朔はやさしい和文で書いている。
 恐れている人々に、種痘は安全なもので順なるもの、すなわち「必順」であることを説いて、早く信用してもらい、安心して種痘を受け、天然痘で損なわれる子供たちを一人でも防ぎたいために『種痘必順辨』を著したのである。これが日本で初めての種痘書といわれている。
 医術を秘伝家伝として人に教えて広げることが少なかった時代に、進んで説明と理解のために本を書き、種痘法を学びたいと請う医師には喜んで伝授し、九州を中心に全国に広めた。緒方家の門人帳には約一〇〇名に近い医師の名が残る。遠くは、江戸、京都、難波、播磨、備中、越前、伊勢、伊予、土佐、石見から来て教えを請い、その中には二十一名の藩医の名も見られる。さらに、『種痘緊轄』、『種痘證治録』の種痘書を書いて具体的な実施面の説明理解を深めていく。
 春朔はこのようにさまざまな努力をし、種痘がどんなものかを、医師に限らず一般の人たちにも説明し理解を求めた。
 今日、よくいわれるインフォームド・コンセントである。すなわち説明と同意を得ることをいち早く行っていった。

秋月

3. 安全な医療
 種痘が正確で安全に行われるよう色んな手だてを考えた。
 一つは種痘法が正確に安全に行われるよう三冊の種痘書を著してその指針にした。
 二つは種痘の伝授に当たっては、「種痘伝法之誓約」を書かせ、次のことを誓わせている。種痘を正確に安全に行うには、我が案出した処置法を必ず守ること。もし失敗して亡くなるようなことがあれば、人を刀で刺し殺すのと同じである。医者の罪は大である。種痘を施すに当たっては、よくその子供の状態を診察し、細心にして、よくよく熟慮して、得心がいって初めて種痘を施すべきである。
 三つは『種痘必順辨』の巻末に自分が伝授した信頼される二十八名の医師の名を記載して、これらの医師から種痘を受けると、安心であることを皆に知らせて安全な医療を願っている。
寛政七(一七九五)年頃、「余ガ試ミル処ノ者既ニ千数ニ及ブト雖未一児ヲ損セズ」と『種痘必順辨』の追加一条で述べている。

4. 公平な医療
 春朔は、高官貴人など位の高い人、位の低い人、貧しい人、金持ちの人など差別せず、すなわち「貴賤貧福」に拘わらず公平な医療を心がけるように願った。私心を募らせて利を得ようとすることなど無いように願った。 そのために、平等に公平な医療を行わなければならないと医師のヒューマニズムを厳しく問うて、入門誓約に「診察貴賤貧福ニ拘ワラズ、丁寧反復婆心ヲ尽クスベキ」と厳しく誓わせている。
 種痘を請われれば、どんな田舎にでも、どんな人の要請にでも出向いて行ったことが彼の書いた『種痘必順辨』からうかがえる。
 この春朔の態度は、一九四八年に開かれた第二回世界医師会総会で規定された医の倫理に関する規定「ジュネーブ宣言」と同様のものである。「ジュネーブ宣言」はその後、数回の改訂を経て、現在、「私は、私の医師としての職務と患者の間に、年齢、疾病もしくは傷害、信条、民族的起源、ジェンダー、国籍、人種、性的志向、あるいは社会的地位といった事情が介在することを容認しない」と誓わせている。

5. 春朔をして何がそうさせたのか
 天然痘は大変恐ろしい伝染病として怖がられていたので、天然痘に罹った子供には家庭も周りの人たちも近づかなかった。種痘が発生すると里の人々との接触を避けるため、患者は人里離れた山に追いやられ、病が治まって生き残った者から下山を許された。
 そのような状況の中、天然痘患者から採ったかさぶたを鼻から吸い込ませるような医療行為(種痘)は受け入れられるはずはなく、春朔を奇人扱いする者も多かったであろう。
 しかし、そんな中にあっても、春朔の懸命な説明の努力によって周りの人々の理解を得て、ようやく種痘を成功させ、それを次第に広めていく行くことができたのである。
春朔をして何がそうさせたのか。それは、「医を業とする者、済世救苦を使命と考える」という、春朔の医師としての使命感以外に考えられない。加えて、自分がやらなければ誰がやるのだろうかという思いであろうか。これらの固い信念でことを進めていったものと考える。
 以上、緒方春朔が願った医療に対する姿勢は、現今の医療人に多大な教訓となるものである。これらの教えを胸にかみしめて、今後の医療に携わっていきたい。

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