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緒方春朔史談
其之弐−「『種痘必順辨』か『必須辨』か」
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はじめに > その混乱の状況

1.はじめに

 緒方春朔の『種痘必順辨』は、日本人によるわが国最初の種痘書であり、日本医学史上貴重なものとされている。医学史の大家富士川游博士は著書『日本医学史』の中で、「本邦第一ノ種痘書ナリ」と述べているように、これより先に日本人の手になる種痘書は見当たらない。これほど貴重な種痘書の題名が医学書や医史学書の中で「」とあるもの「」とあるもの、ばらばらでどちらが正しいか不明とされている。しかし、今回の200年記念事業で調査を進めていく中で、「順」が正しいのではないかと私自身確信を得たし、記念事業のシンポジウムの中でも「順」が正しいのではないかとされた。そこで郷土の先賢の名誉のためにも、この「順」か「須」かの問題をはっきりさせ、一度、医史学会で発表し「」説を主張しこの問題に決着をつけたいと思っている。その下調べの意味もあって、ここにその混乱の状況を調べ、日本に現存せる『種痘必順辨』を調査のうえ、この問題に考察を加えてみたいと思う。

2.その混乱の状況

 我が医師会の元会長であられた熊本正熙先生は、昭和33年に『緒方春朔先生小伝』を著しておられるが、これには「須」となっている。しかし、昭和52年に著された『吾国の種痘と緒方春朔』では「順」となっており、次のように述べられている。

 「この書名については二説がある、即ち「必須」か「必順」が、何れが正しいのか不明である。富士川游氏の著書には「必須弁」とあり、前記の池田瑞仙の書簡では「必順弁」となっている。「必ず須(も)ゆ」より「必ず順(したが)う」と解した方が順当ではないかと思われるし、秋月郷土館に保管されている本の表紙も「必順弁」となっているので、本書では「必順弁」をとることにした。このことについては、秋月在住の郷土史家三浦末雄氏も同意見である」

 ここで、手元にある医史学書から『種痘必順辨』の記載がどうなっているか例挙してみると次のようであり、その混乱ぶりがはっきりする。

A)「順」とするもの

(1)善那氏種痘発明百年紀念会報告,110,明治30年。
イラスト(順) 「種痘必辨 緒方春朔著 寛政七年刊
(東京 呉 秀三君出品)
緒方春朔は濟庵と號す筑前秋月の人にして長崎吉雄氏の門人たり當て「醫宗金鑑」の種痘心法を讀み李仁山が施術を聞きてより頻に心を潜め研究する所あり、寛政七年この書を著したり是蓋し本邦第一の種痘書なり」

(2)富士川游『日本医学史』479,日新書院,東京,昭和16年。(明治37年初版刊)
「緒方春朔(號濟庵)ハ筑前・秋月ノ人ニシテ、長崎ニ學ビ吉雄氏ノ門人タリ、當テ醫宗金鑑ノ種痘心法ヲ讀ミ、仁山ガ施術ヲ聞キテヨリ頻ニ心ヲ潜メ研究スルトコロアリ。寛政元年秋月藩痘瘡流行ニ際シ、始メテ鼻乾苗法ヲ施シソノ効著シカリシガ、寛政六年江戸祗役セシトキ、又連ニ名ヲ聞キテ施術ヲ受クルモノアリ、ソノ術遂ニ世ニ聞エシカバ諸藩候ハソノ待醫ヲシテ就テ學バシメタリ、春朔ノ著ストコロ、種痘必辨ハ寛政七年ニ刊行セラレシガ、蓋シ是レ本邦第一ノ種痘書ナリ」

(3)酒井シヅ『日本の医療史』368,東京書籍,東京,昭和57年。
「人痘接種の名人として名を挙げたのは、秋月藩の緒方春朔(1748−1810)であった。寛政一年(1789)、秋月藩に痘瘡が流行したときに、彼は『醫宗金鑑』の記述に従って初めて二児に種痘して成功した。その後、研鑽を重ね、それから五年間に四百人近くに種痘し、種痘医として天下に聞こえた。寛政六年(1794)、江戸詰になると、各地から名声を聞いて種痘を受けに来たり、ならいに来た。翌年自分の体験をもとに『種痘必辨』を著したが、是が日本で最初の種痘専門書となった。なお、これが出版された前年(1798)に、ジェンナーは牛痘接種の実験例をまとめて出版したが、牛痘接種が日本で広く行われるようになったのは、それから五十年後であった」

B)「須」とするもの

(1)浅野陽吉『種痘の祖贈正五位緒方春朔』5,浅野陽吉,久留米,昭和10年。
 「緒方春朔の種痘法は、鼻乾苗法である。彼は『種痘必辨』及び『種痘緊轄』の二編を著し、種痘の方法を世に示した」

(2)藤井尚久「本邦疾病史」,日本学士院編『明治前日本医学史』第一巻,308,日本学術振興会,東京,昭和36年。
「九州筑前秋月藩の緒方春朔が予て「醫宗金鑑」に拠り人痘接種の法を知って居たが又長崎の蘭学者・吉雄耕牛及び蘭館医ケルレル Ambrosius Ludwig Bernhard Keller に就て洋式人痘種の法(実は「トルコ」式)も聴聞して居った、これより先寛政元年(1789)藩内に痘瘡が流行した時、鼻乾苗法を追試実験して効果を挙げた。春朔は遂に其経験に基いて寛政七年(1795)、「種痘必辨」を著はした、本書は実に我国最初の種痘書で英国のジェンナー Edward Jenner(1794−1823)のあの劃期的なる牛痘種痘の法を公表した西暦1798年(我が寛政10年)に先立つこと3年であった」

(3)藤野恒三郎『日本近代医学の歩み』181,講談社,東京,昭和49年。
 「わが国における人痘種痘に関する文献は、筑前(福岡県)秋月藩医緒方春朔の書いた種痘必弁1795年(寛政七年)である。筆者蔵書はありふれた写本で、巻首は次の通りである。
イラスト(須)
種痘必順弁
筑前  緒方春朔甫著
対州  田成陽朔文 同校
土州  野村元ト文
巻末には、
享和四年甲子歳二月中一
永井 乕    文炳写
種痘出順弁一巻得諸江戸浅草市上
文政甲申四月九日鶏鳴弁蔵

写本は虫くいひどく、袋とじの酔月舎の印ある罫紙十一丁に種痘必弁がおさめられていて、続く五丁に御纂醫宗金鑑八編輯幼科種痘法要旨がある。これは中国の医書抜粋である。
わが蔵書の表紙と巻末には必に代わって出が書かれている。山崎佐氏著書その他では順ではなく須になっているがが正しいので、順は魯魚の誤りであろう」

(4)藤野恒三郎『医学史話』267,菜根出版,東京,昭和59年。
 「1980年5月8日、WHOは天然痘ゼロ宣言を公表した。これを記念して、1983年4月、第21回日本医学会総会に於て、「天然痘ゼロへの道」展示が行われた。内藤記念くすり博物館編「天然痘ゼロへの道」(24頁)(1983)に詳しく記録されている。筆者も執筆陣の一員であり、種痘必辨・引痘略の写本などの資料を提供した」

(5)三輪谷俊夫「わが国における種痘法の伝来と普及」,加藤四郎編『天然痘ゼロへの道』74,エーザイ,東京,昭和59年。
「わが国における人痘種痘法の普及に大いに役立った文献に、寛政七年(1795)筑前秋月藩医・緒方春朔(1748〜1810)の書いた「種痘必辨」がある。春朔はかねてから「醫宗金鑑」によって中国式人痘種痘法を知り、李仁山の施術も聞き、長年の間種痘に研究心を燃やし続けていたが、寛政元年(1789)秋月藩(黒田侯)の天然痘流行に際し、同2年鼻乾苗法を初めて行い効果を収めた。同年長崎に赴き、蘭館医ケルレル(Ambrosius Ludwig Bernhard Keller)についてトルコ式種痘法を聴聞するにおよび、遂にその経験に基いて「種痘必辨」を著したのである。本書は日本人による我が国最初の種痘法書として評価されており、ジェンナーがあの画期的な牛痘種痘法を公表した1798年(寛政10年)に先立つこと3年であった」
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